人は、愛されたいと思っている。
この言葉に、大きな反論は出ない。
大切にされたい。
必要とされたい。
雑に扱われたくない。
ただ、その「愛されたい」という感覚が、
同じ形をしているかというと、
そこには少し疑問が残る。
同じ言葉を使っていても、
頭の中に浮かんでいる景色は、
人によって微妙に違っている気がする。
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ある人は、言葉が欲しい。
ある人は、時間を欲しがる。
ある人は、行動を求める。
ある人は、形に残るものを欲しがる。
ある人は、触れられることで安心する。
どれも、愛だ。
どれも、本気だ。
それなのに、
噛み合わない場面がある。
想っていないわけじゃない。
足りないわけでもない。
それでも、伝わらない。
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もしかすると問題は、
愛の量ではなく、
受け取り方のほうにあるのかもしれない。
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人は、どんな形の愛でも感じ取れるわけではない。
自分の感覚に合った形で差し出されたときにだけ、
それを「愛だ」と認識する。
同じ想いでも、
形が違えば、
人によっては存在しなかったことになる。
このズレは、
恋愛だけの話ではない。
日常のあらゆる関係の中に、
静かに入り込んでいる。
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世の中には、愛の表現にはいくつかの型があると言われている。
言葉で伝える人。
時間を使う人。
形あるものを渡す人。
行動で支える人。
触れることで近さを示す人。
どれが正しいか、という話ではない。
どれが深いか、という話でもない。
ただ、人にはそれぞれ
これがあると安心できる、という入口がある。
ここが噛み合わないと、
人は簡単に不安になる。
一生懸命に手を貸しているのに、
言葉がなくて、不安になる人がいる。
時間を割いて会っているのに、
形に残るものがなくて、
距離を感じる人もいる。
どちらも本気だ。
どちらも手を抜いていない。
それでも、満たされない。
愛が足りないわけじゃない。
受信方式が違うだけだ。
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ここで多くの人は、
相手に合わせなければならない、と考える。
もちろん、歩み寄りは大切だ。
でも、自分の感覚を押し殺した優しさは、
長くは続かない。
無理をした愛は、
いつか疲れや違和感として、
別の形で表に出る。
だから本当に先にやるべきことは、
相手を変えることでも、
分かってもらうことでもない。
自分は、何があると安心する人間なのか。
何が欠けると、不安になるのか。
それを自分で知っておくことだ。
言葉がないと心が冷えるのか。
触れられないと距離を感じるのか。
時間を取ってもらえないと、
軽く扱われた気がするのか。
それは性格でも、わがままでもない。
ただ、心のセンサーの設定だ。
このズレは、仕事でも起きる。
友情でも起きる。
起きている出来事は同じでも、
受け取り方が違えば、
意味はまったく変わってしまう。
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もう一つ、大事なことがある。
人は、
欲しい形で愛を与えやすい。
言葉が欲しい人は、言葉を使う。
時間が欲しい人は、時間を差し出す。
行動を求める人は、動いて示す。
つまり、
誰かにしている愛は、
そのまま自分自身の願いでもある。
それに気づかないと、
こんなにしているのに、という思いが溜まっていく。
愛が返ってこないのではなく、
「想いの橋渡し」がされていないだけかもしれない。
「愛のカタチ」は、
相手を変えるための道具じゃない。
自分の寂しさの形を知るためのものだ。
すれ違いに名前をつけて、
人格攻撃をやめて、
「想いの橋渡し」が必要だったと言えるようになるための言葉だ。
それだけで 世界は
敵じゃなくなる。
