投稿者: sayson

  • 満月🌕

    満月🌕

    2026年2月2日は満月です。

    今宵の月のように・・・

    今宵の月のように
    満ちる日を焦らず
    今ある光で
    今日の自分を彩ろう

  • やらなかった自分を 人は一番悔やむ

    やらなかった自分を 人は一番悔やむ


    人は年齢を重ねるにつれて、人生を振り返る時間が増えていくと言われます。

    確かに自分も最近振り返る時間が増えたかもしれない(笑)

    特に節目の年代に差しかかると、このままで良いのだろうか、という問いがふと浮かぶことがあります。

    アメリカで八十歳以上の高齢者を対象に行われた、人生で最も後悔していることは何かという調査があります。

    その結果は、多くの人が想像するものとは少し違っていました。

    お金でも、仕事でも、人間関係でもない。

    多くの回答が、ある一点に集中していたのです。

    しかし、その答えを知ったとき、私は同時に静かな引っかかりも覚えました。

    なぜ人は、やらなかったことを、そこまで強く悔やむのか。


    その調査では、回答者の七割以上が同じ答えを選んだと言われています。

    それは、挑戦しなかったことでした。

    つまり、人は失敗したことよりも、試さなかった選択を後悔するということです。

    ここで重要なのは、結果の良し悪しではありません。

    実は、多くの人が振り返っているのは、行動しなかった自分自身なのではないでしょうか?

    私自身、これまでの人生で何度も選択の場面に立ってきました。

    新しいことを始めたい気持ちがありながら、今の安定を崩すのが怖くて立ち止まったこともあります。

    一方で、不安を抱えたままでも、一歩踏み出したこともありました。

    思うような成果がすぐに出たわけではありません。

    遠回りに感じた時期もありました。

    しかし振り返ると、その試行錯誤の時間こそが、自分の判断軸を育ててくれたように思います。

    挑戦の中で得た経験は、形には残らなくても、確実に自分の中に積み重なっていきました。


    そして今、45歳になった私は、はっきりと言えることがあります。

    やらなかった後悔より、やって迷った記憶のほうが、ずっと自分を支えているということです。


    人生は、気づかないうちに選択の連続でできています。

    大きな決断だけでなく、日々の小さな判断の積み重ねが、今の自分を形作っています。

    年齢を理由に、新しい挑戦を遠ざけてしまう人も少なくありません。

    しかし本当に、挑戦には期限があるのでしょうか。

    むしろ、経験を重ねた今だからこそ、選べる挑戦もあるのではないかと感じています。


    挑戦という言葉は、ときに重たく聞こえます。

    ですが、必ずしも大きな目標である必要はありません。

    ここで私が大切にしてるのは、自分の心が少しでも動いたかどうかです。

    やってみたい、と感じた気持ちを無視しないこと。

    そのために、言葉にしてみることは意外と効果があります。

    なぜなら、言葉は思考を整理し、行動へと変えていく力を持っているからです。

    後悔のない人生のために、と口にするだけで、視点がわずかに変わります。

    その変化が、新しい一歩を踏み出すきっかけになります。


    人生の終わりに振り返ったとき、やらなかった理由より、やってみた記憶が残っていたなら、それで十分なのかもしれません。

    さいそん

  • 世界が敵になる前に

    世界が敵になる前に

    人は、愛されたいと思っている。

    この言葉に、大きな反論は出ない。

    大切にされたい。

    必要とされたい。

    雑に扱われたくない。

    ただ、その「愛されたい」という感覚が、

    同じ形をしているかというと、

    そこには少し疑問が残る。

    同じ言葉を使っていても、

    頭の中に浮かんでいる景色は、

    人によって微妙に違っている気がする。

    ーーーーーーーーーーーー

    ある人は、言葉が欲しい。

    ある人は、時間を欲しがる。

    ある人は、行動を求める。

    ある人は、形に残るものを欲しがる。

    ある人は、触れられることで安心する。

    どれも、愛だ。

    どれも、本気だ。

    それなのに、

    噛み合わない場面がある。

    想っていないわけじゃない。

    足りないわけでもない。

    それでも、伝わらない。

    ーーーーーーーーーーーー

    もしかすると問題は、

    愛の量ではなく、

    受け取り方のほうにあるのかもしれない。

    ーーーーーーーーーーーー

    人は、どんな形の愛でも感じ取れるわけではない。

    自分の感覚に合った形で差し出されたときにだけ、

    それを「愛だ」と認識する。

    同じ想いでも、

    形が違えば、

    人によっては存在しなかったことになる。

    このズレは、

    恋愛だけの話ではない。

    日常のあらゆる関係の中に、

    静かに入り込んでいる。

    ーーーーーーーーーーーー

    世の中には、愛の表現にはいくつかの型があると言われている。

    言葉で伝える人。

    時間を使う人。

    形あるものを渡す人。

    行動で支える人。

    触れることで近さを示す人。

    どれが正しいか、という話ではない。

    どれが深いか、という話でもない。

    ただ、人にはそれぞれ

    これがあると安心できる、という入口がある。

    ここが噛み合わないと、

    人は簡単に不安になる。

    一生懸命に手を貸しているのに、

    言葉がなくて、不安になる人がいる。

    時間を割いて会っているのに、

    形に残るものがなくて、

    距離を感じる人もいる。

    どちらも本気だ。

    どちらも手を抜いていない。

    それでも、満たされない。

    愛が足りないわけじゃない。

    受信方式が違うだけだ。

    ーーーーーーーーーーーー

    ここで多くの人は、

    相手に合わせなければならない、と考える。

    もちろん、歩み寄りは大切だ。

    でも、自分の感覚を押し殺した優しさは、

    長くは続かない。

    無理をした愛は、

    いつか疲れや違和感として、

    別の形で表に出る。

    だから本当に先にやるべきことは、

    相手を変えることでも、

    分かってもらうことでもない。

    自分は、何があると安心する人間なのか。

    何が欠けると、不安になるのか。

    それを自分で知っておくことだ。

    言葉がないと心が冷えるのか。

    触れられないと距離を感じるのか。

    時間を取ってもらえないと、

    軽く扱われた気がするのか。

    それは性格でも、わがままでもない。

    ただ、心のセンサーの設定だ。

    このズレは、仕事でも起きる。

    友情でも起きる。

    起きている出来事は同じでも、

    受け取り方が違えば、

    意味はまったく変わってしまう。

    ーーーーーーーーーーーー

    もう一つ、大事なことがある。

    人は、

    欲しい形で愛を与えやすい。

    言葉が欲しい人は、言葉を使う。

    時間が欲しい人は、時間を差し出す。

    行動を求める人は、動いて示す。

    つまり、

    誰かにしている愛は、

    そのまま自分自身の願いでもある。

    それに気づかないと、

    こんなにしているのに、という思いが溜まっていく。

    愛が返ってこないのではなく、

    「想いの橋渡し」がされていないだけかもしれない。

    「愛のカタチ」は、

    相手を変えるための道具じゃない。

    自分の寂しさの形を知るためのものだ。

    すれ違いに名前をつけて、

    人格攻撃をやめて、

    「想いの橋渡し」が必要だったと言えるようになるための言葉だ。

    それだけで 世界は

    敵じゃなくなる。

  • 伸びてから切るのではなく、崩れる前に整えるという考え方

    カットは、伸びたらするもの。多くの人がそう考えている。長さが気になったら切る。まとまらなくなったら整える。生活の中で不都合が出たときに、必要に迫られて行う行為。カットはその程度の位置づけで語られることが多い。

    確かに、髪は伸びる。放っておいても命に関わることはない。だから後回しにされやすいし、忙しさの理由にもなりやすい。だが、鏡の前に立ったとき、どこかしっくりこない感覚が残ることがある。その違和感は、長さの問題だけではない気がしてくる


    こまめなカットの価値は、見た目の変化よりも前に、状態の維持にある。髪型は完成した瞬間から崩れ始める。伸びる方向、重さの偏り、毛流れのズレ。それらは少しずつ積み重なり、ある日まとめて不満として現れる。

    間隔を空けたカットは、修正の量が多くなる。結果として、変化は大きくなり、違和感も生まれやすい。一方、こまめなカットは修正が最小限で済む。形を壊さず、整え続けることができる。

    ここで重要なのは、他人にどう見られるかではない。自分自身が無意識に受け取っている情報。髪が整っている状態は、姿勢や表情、行動の速度にまで影響する。理由は単純で、余計なノイズが減るからだ。気にならないという状態は、思っている以上に多くのエネルギーを生む。


    カットをこまめにするという行為は、見た目を整えることではなく、日常の精度を保つための選択なのかもしれない。

  • 名作スラムダンク

    スラムダンクは、青春スポーツ漫画の代表作として語られることが多い。(私はドンピシャの世代。ジャンプで読んでた。)

    努力、友情、勝利。

    才能のある仲間と出会い、壁にぶつかり、成長し、全国を目指す。

    そうした王道の物語として、多くの人の記憶に残っている。

    けれど、読み返すたびに引っかかる。

    この作品を包んでいる空気は、どこか静かで、重たい。

    勝利の物語にしては、読後の熱が長く残らない。

    桜木花道は、最後まで完成しない主人公だ。

    天才を名乗りながら、技術も理解も追いつかない。

    努力はするが、成長は段階的で、決して華やかではない。

    流川は圧倒的な才能を持ちながら、最後まで孤独を抱えている。

    三井は取り戻せない時間を背負ったまま、コートに立ち続ける。

    赤木は理想を掲げ続けた結果、全国の舞台で現実を突きつけられる。

    誰ひとりとして、完全な成功には辿り着かない。

    それでも彼らは、プレーをやめない。

    この物語は、勝者を描こうとしていない。

    未完成な状態のまま、それでも前に進む姿を、淡々と積み重ねていく。

    読み終えたあとに残るのは、達成感よりも、

    途中で止まった成長や、言葉にされなかった感情の重さだ。

    物語が後半に進むにつれ、試合の描写は変化していく。

    セリフは減り、説明は削られ、コマは白くなる。

    読者は理解する側から、体感する側へと静かに移されていく。

    緊張感は高まるのに、言葉は増えない。

    ここで多くの作品なら、心理描写や戦術解説が入る。

    だがスラムダンクは、それをしない。

    山王戦の後半は、異様なほど静かだ。

    感情は語られず、理由も説明されない。

    あるのは、視線、動き、音だけ。

    それなのに、胸の奥が締めつけられる。

    あの試合は、勝つための試合から、

    自分たちの限界を知ってしまう時間へと変わっていく。

    もう戻れない場所まで来てしまった、という感覚。

    勝敗よりも先に、その事実だけが突きつけられる。

    だから勝利しても、物語は高揚しない。

    残るのは、熱狂ではなく、静かな疲労と沈黙。

    スラムダンクは、夢が叶う物語ではない。

    夢の重さを知ってしまった人間が、その先をどう生きるのかを、語らずに残す作品だわ。

  • ドラえもんの秘密

    ドラえもんは優しいロボットの話だと思われがちやけど 実はあの世界 かなり残酷や

    未来の自分がどうしようもなく詰んでいて 他人の人生を変えにロボットを送り込む その前提からして重たい

    多くの人は ひみつ道具が夢を叶えてくれる物語だと思っている

    でもドラえもんの本質は 真逆や

    道具は毎回問題を解決するけど 同時に必ず新しい問題を生む

    近道を使えば使うほど のび太は自分で考えなくなるし 調子に乗るし 失敗する

    つまりドラえもんは 魔法の物語じゃない

    努力しない人間がどう転ぶかを 何度も何度も見せつける教育マンガや

    それでもドラえもんは去らない

    呆れながらも 見捨てず 隣に座り続ける

    ここが一番エグい

    あれは道具の話じゃなく 無条件で関わり続ける存在の話やから

    ドラえもんの凄さは 夢を与えたことじゃない

    ダメなままでも 生きていていいと 初めて肯定したことだと思う。